ヤンゴンにて
29th Feb 2004
ミャンマーは19世紀末から大英帝国によるインド統治化の下で、ビルマと呼ばれていたが1937年に自治保護区になった。1942年に日本に
占領され、第二次世界大戦中は軍事行動の桧舞台になった。ビルマは1948年に独立を勝ち取ったが、一部の少数民族に自治権を与えなか
った為に現在あちこちの国境を越えて広がっている、様々な武装分離運動に悩まされてきた。
現在最も貧しい10ヶ国の一つであるミャンマーは1962年にはアジアで最も豊かな国だった。其の年に軍事クーデターでネー・ウイン将軍が民主
主義政権を倒して一党独裁国家を確立して、党による『ビルマ社会主義への道』を実施した。占星術と数秘術に頼って、排外主義、狂信的愛国主
義から、国を世界から切り離し、天然資源や農業に関しては本来豊かで、安い労働力があるはずなのにミャンマーを、今日まで続いている経済的
停滞の時代へと導いた。
軍による直接支配が行われるようになったのは、大衆からの圧力でネー・ウインが辞任に追い込まれた1988年からである。1989年には国の
名前がミャンマーに戻された。ビルマは、150年前にイギリス人が最大の民族の名前を取って呼び始めた名前だった。
軍部に反感を持つ外部の人達はこの国をビルマ・・・比較的新しい植民地としての名前・・・と呼ぶことに固執します。ミャンマーの反植民地主義者
の人達や軍首脳は歴史ある名前にこだわる。私はチャント勉強するまでは政治的状況に関しては中立を保つことを決めているが、国の名前に
関しては歴史と民主の側に立つことにした。ミャンマーだ。
私がこの国のチークに興味を持って訪れだした頃、1990年、この国で自由選挙が30年振りに行われたが、建国者の一人の娘であるアウン・サン
・スーチー(彼女の父はビルマをイギリス人のてから開放するために多きな働きをした)の野党が決定的な使用理を収めると、選挙結果は無効に
された。1991年。選挙で選ばれた政権のほかの指導者と同様に自宅に監禁されていたスー・チー女史が、ノーベル平和賞を受賞すると、
ミャンマーは国際的な関心を集め、米国による経済制裁の対象となった。私が定宿にしている簡易宿から徒歩5−6分の所にスー・チー女史邸
があり常に軍関係者が監視をしていた。幽閉といっても近所の親戚のところに行ったりと厳しいものでは無いようにに見えたが両通路には軍の
兵隊が常に目を光らせており厳しい監視体制は宿の窓から見てても伺えた。
1992年に軍事政権の主導権を握ったタン・シュエ将軍の下政治的弾圧は幾らか弱まった。新しいミャンマー憲法の草案を作る会議が1996年
に召集された(スー・チー女史の父親が草案作りを監督した旧憲法は外国人と結婚したものが国の指導者になれないと規定している。オックス
フォードに学び選挙以前は英国に住んでいた彼女は、首相に立候補した時はイギリス人と結婚していたので、その役職に就くことは出来ないと
と言うのが同国軍事指導部の主張である。)
シュエジーゴン・パゴダ
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Mt PoPa PAGAN

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ヤンゴンの北東にある チャイティーヨー・パゴダ
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私のミャンマーチークの輸入販売量が日本でも注目を浴びだした1997年頃は、この国は国際的な孤立から抜け出しつつあった。米国の貿易制裁
に直面したミャンマーは貿易連合であるASEAN(東南アジア諸国連合)の正式加盟国になった。20年前はミャンマーを訪れる観光客は居なかった。
15年前には1週間ほど過ごす観光客が出始めた。1995年頃から状況は更に改善した。
国中に観光ホテルが建ち始め、政府は1997年を観光元年とした。空港も従来のバラック的な物から観光都市に相応しい姿に変貌した。
私がミャンマーに訪れだした1990年初め頃のミャンマーは印象的には民族的な貧困さは見えず、精神的な豊かさを感じさせる国の印象が強よか
った。貧富の差は外人と現地人との比較くらいで民族間での貧富の差はなく安定した国に見えた。農業が盛んで食うものに困らないところが他の
貧しい国とは明らかに違う。BKKから1時間程で首都YANGONに着くが窓下から見る広大な農業資源はこの国の宝だ。
もう一つこの国が他の資本主義国にとって注目しているのは地上に見える畑でもチークの原木でもない。地下に埋まっている膨大な産業資材で
ある。レアメタルから銅・鉄鉱石からダイヤモンド等の宝石類からMYANMER DREAMがそこにある。
国際的な物差しでは最も貧しい10ヶ国の一つになってしまうが、アフリカ難民やアフガニスタン等の貧困さと比較出来ない部分があって、『貧しい
けれど豊かである』部分が強く感じられる珍しい国でもある。
それが1994−5年頃になって外資(大半が華僑)が少しずつ入ってきてからは、街角に物乞いする者の姿が見え出してきた・・・・・・・・・・・・。
この頃になて有名な日本の『カラオケ』も巷に見られるようになってきた。又、所謂GOGO DANCE CLUBも出てきた。若者には非常に人気を
集めており、参考までに入ってみた。私はUSAでも何処でも、このてのCLUBは行ったが、ミャンマーでは一種異常な雰囲気に戸惑った。
GOGO DANCE CLUBとは言いながらも踊っている姿は何処か懐かしい田舎の“盆踊り”風でYELLOW SUBMARINのビートにあわせて
今日も何処か懐かしい蛸踊り風の“盆踊り”大会が開催されます。一緒に私も踊ったがスンナリ溶け込んで遅くまで“盆踊り”を楽しんだ。
ミャンマーは総じて言えば、其処を訪れる人にとってすばらしい国であるということだ。人々は親切で信心深く、勤勉で、規律を守っている。この国
は今後モット栄えて、モット外の世界に開かれると思いますが、英国が引いた国境に縛られている間は輝かしい未来があると思えない。
50年後にこの国が生き残って行く術はあるのだろうか?現状ではシャン州の一部では実際に自治が行われて、大麻取引で権力を得た軍閥が
支配している。他の地域での暴力的な分離主義運動もそう簡単に収まらないだろう。いつビルマ民族は自分たちの国を得ることになるのだろう?
手垢にまみれていない純粋な国を見たければ、そしてスープ麺と揚げパン。他の食事には必ずデザートにプランテイン・バナナ、それからヌガビと
読んでいる魚のペースト入りの野菜シチューが付く、朝食が好きであればWELL COME MYANMERです。
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